ブーケ
2016.08.20 Saturday
友達への手土産にちょこっとしたブーケを持っていくこともあるのですが、喜ばれるのと同時に、
「花をもらうことがない」と言われることが多く。
展覧会やライブをする人などは、わりともらう機会はあるかもしれないけれど、日常に花を贈る週間って、そんなに根づいてないのかもなって。
そもそも私自身も、写真展をする時以外にあまり花をもらうことはないし。
まぁ、人にもらわなくても、欲しかったら買えばいいやと思って、たまには自分にブーケを。
最近気に入っているのは、「BON MARCHE」という花屋さん。私は新宿や池袋の店を見ることが多いですが、都内に何店舗かあるみたいです。
この、ハーブと淡い感じの色の花をあわせるセンスがとても好きです。こういうロマンチックなグラデーションは自分には作れないので。
ついつい、ダリアとかはっきりした一輪の花を選んでしまいます。
反対側はこんな感じです。夏らしい感じ。夏の暑さは花にとっては過酷だし、私もついつい花を買うのを控えてしまうのですが、やっぱり部屋に花があると嬉しいです。
今年も桃とモッツァレラ
2016.08.14 Sunday
知り合いから、本を出版したとの嬉しいメールが届く。
今年も桃とモッツァレラのマリネ。小さな丸いモッツァレラを手でちぎったので見た目はあんまりだけど。たまたま、スーパーで買った桃がすごく甘くて美味しかった。
知り合いに桃とモッツァレラをマリネにしたら美味しいと話したら、アボガドとグレープフルーツのマリネも美味しいわよと教えてもらった。今度、作ってみよう。
最近はサラーム海上さんという方の「家メハイネで中東料理パーティー」という料理本を読んで、想像を逞しくしている。
本に載っていた、新大久保のハラルフードのお店へも行ってみた。新大久保へはよく行くので、前は通っていたお店だったけど。
濃厚な練りゴマのペーストのタヒーニとか、白チーズとかをチェック。タヒーニを使う、ひよこ豆のペーストのフムスとか好きだけど、そこまでしょっちゅう作らないしなと今回は買わず。
本に載っていた、スイカとミントと白チーズのサラダも作ってみたいな。(やっぱり、そこか)
暑くても、食欲だけは一向に減らないのです。
やまゆり園のこと
2016.08.07 Sunday
昨日、駒場の東大で行われた、相模原の障害者施設、やまゆり園で命を奪われた人たちの追悼の集会へ行ってきました。
最初は一人でやまゆり園に行ってみようと思って、インターネットで場所などを調べようとしたら、この集会のことを知り、急遽、行くことにしました。
障害者施設でたくさんの人の命が奪われ、その命を奪ったのが元職員だと知った時、とても強いショックを受けました。
このことについて何かを思ったり、考えたりしようとすると頭がフリーズして、言葉も出なくなり。
今も、てんでばらばらに、言葉も思いも散らばっているけれど、なるべく正直に書きたい。
犯人の男性からつきつけられた、重度の障害者は生きる価値はないという強烈なメッセージ、そしてその考えに従って実際にたくさんの命が奪われたこと。
本当にとても悔しい、、、。
そして、命を奪われた人たちが、報道などで、女性、男性などの性別、年齢などだけの名前のない記号のような形で表されていたこと。このことにも違和感を抱きました。
今は、名前が出ることで、その人の個人情報がインターネットなどに過剰な形で出回ってしまうことも多いし、そのこと自体は問題として考えなくてはいけないことだと思います。
ただ、私が違和感を感じたというのは、本人自身がどう思っていたかというのが全く見えない、わからないところで、配慮という形で今回のような匿名の形になったのではないかということ。
主に、親の事情に配慮されたのだと思うのですが、本人はどうだったのだろうかと。逃げも隠れもしていないし、自分がここにいるという証明のためにも、自分の名を名乗りたかった人もいるのではないのだろうか。
犯人は「意思の疎通ができない人たちを刃物で刺した」と言っているとのことですが、本当に意志の疎通ができなかったのか?も疑問に思います。
確かに、コミニケーションにおいて、スムーズではなかったり、時間がかかったりした人もいたかもしれません。
でも、本当に意志がなかったのでしょうか?側で介助をしていた職員ならば、嫌なものに嫌だと反応したり、何をしている時にその人が充足していたとか、日々の生活の中で、その人の意志や思いに気づく機会がたくさんあったのではないかと思います。
この人には生きる価値がある、この人には生きる価値がない。
人の命の価値を自分ではない誰かが決めること。
そのことを考えたくて、出生前診断、尊厳死、安楽死などのイベントへ何年か前によく行くことがありました。
命の価値、そんなものはない。だれも等しい。そう思いたい、心からそう思えればいいと本当に思いますが、私の中にも強く言いきれない何かがあります。
それはきっと、私自身が生きていていいのか?確信のようなものが持てない。そのことにも関係しているのではないかと思います。
人も自分も、生きていいと思えるような、確かな何かを。探したいし、見つけたいけれど。
集会の中で、主催者の一人でもある、熊谷晋一郎さんが、今回の事件で、「信頼の底が抜けてしまった」というようなことをおっしゃっていました。
私も今は、身近な人を少しづつでも信じるというところから、始めたい。
殺された人たちのことを思うと、こんなふうに語ることもどうなのかというような気持ちはあるけれど、恐怖に飲み込まれて、さらに排除を進めないためにも。
今思っていることをここに書いておこうと思いました。
54枚の写真〜長崎・被爆者を訪ねて
2016.08.04 Thursday
8月6日(土)午後11時〜、NHKのETV特集で、「54枚の写真〜長崎・被爆者を訪ねて」という番組があります。
知り合いの方が関わっている番組で、私は見る予定ですが、もし興味のある方がいればと思い。
番組内容
去年、アメリカ国立公文書館で、長崎の被爆者を写した54枚の写真が発見された。ある女性は、泣いているような表情で、まっすぐカメラを見据えていた。ケロイドをさらした少年の姿もあった。敗戦直後の1946年、47年、写真は何のために撮影されたのか。担当したABCC(原爆傷害調査委員会)は、その後、放射線影響研究所となり、放射線リスクの基準作成に携わっていた。54枚の写真をもとに被爆者たちの戦後を訪ねていく